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01.09
Tue

 トランク一つと旅行カバンが一つ。
 大抵のものは処分したから、持ち出すものは殆どなかった。
 家具類がなくなって、以前よりも一層広く見える部屋。
 不思議と感慨深いものがあった。あんなに嫌なことがあったのに。逃げ出したいとさえ思っていたのに。
 それでも、そればかりではなかったのだと改めて思い知らされる。

「俊」

 背後から呼ぶ声に振り返る。
 門脇が立っていた。

「ほんまに、出ていくんやな」
「前に話したとおりや」

 門脇はどこか寂しげで、その様子に瑞垣は少しだけ笑ってしまう。


***

 退院の日、病院まで迎えに来た門脇と話をした。
 どこで誰が聞いているかわからないから、部屋に戻って、二人だけで。
 そう提案したのは瑞垣で、二人きりになることに躊躇いを見せたのは門脇の方だった。

「ほんまにええんか? 誰か人目がある方が俊にとっては……」
「あのな、おまえは一般人と違うんやぞ。一応有名人なんやからな」
「けど」
「秀吾」

 マンションの玄関で立ち止まったまま、足を踏み入れようとしない門脇を振り返り、瑞垣は言った。

「おれは大丈夫や。ありがとな」

 テーブルを挟んで椅子に座る。
 そうして互いに何にも気兼ねせず、話をした。
 これまでのこと。
 そしてこれからのこと。
 一からやり直そうと思うと、門脇は言った。
 球団から契約は切られてしまった。それでも野球は出来るからと。
 考えて、悩んで、出した結論に違いない。だけどきっと完全にふっ切れてはいないのだろう。情けない顔をしていた。そんなところは、昔からちっとも変わっていないらしい。

「俊には辛い思いばっかりさせた。酷いことばかりして……」

 門脇は言って静かに目を閉じ、深く頭を下げた。

「ほんまに、すまんかった」

よく見ると、門脇の肩は小刻みに震えていて、声も心なしかくぐもっているような感じだった。
 瑞垣は胸を突かれたようになって、唇を引き結ぶ。

「やめぇ、おれかておまえを傷つけた……」
「それはおれの自己責任や。おれがおまえにそうさせた。悪いこと全部、全部周りのせいにして。そうすることで少しでも自分が楽になろうとした。そして、おれがそんなことをしている間にも、色んな大切なものが、どんどん遠ざかっていくのが怖かった。怖くて、見ないふりして、せめて俊だけでも、手放さないでおこうって。なんとか繋ぎ止めたい思うて……」

 瑞垣は黙って門脇の言葉を聞いていた。
 聞きながら、過去の己の行いを悔いていた。

「おれ、やっぱりあの時に野球やめておけばよかった。俊がおれの想いを受け止めてくれた時に、そうすればおれは」
「やめろ」
「でも俊、おまえを傷つけずに済んだ」

 瑞垣はこみ上げてくる感情を抑えつけて言う。

「やめろ言うとるやろ。もしもこうしていたら、考えるだけ無駄なことや。それにおまえに野球やめるなって言うたんはおれや。なあ秀吾……おれ、昔おまえに嫌いや言うたことあったよな」
「ああ」
「おれな、今でもおまえのこと嫌いや。おまえの才能が羨ましかった。おれがどれだけ望んでも手に入らんそれを持っとるおまえが羨ましくて妬ましくて、憎らしかった。だからあの時も、野球やめろって最初言ったのは嫌がらせのつもりやった」
「そう、やったんか……」

 門脇は驚きに目を丸くし、瑞垣は呆れたように笑った。

「ほんま何もわかっとらんのやな、秀吾は」
「すまん」
「いや、それで当たり前なんや。おれかておまえのこと、何もわかっとらんからな」
「俊?」
「だから教えてくれ、秀吾。おまえにとって、野球はほんまにその程度のものやったんか? おれのためにやか、そんな簡単にやめられるもんやったんか?」

 門脇は何かを言いかけて、口を閉じ、じっとテーブルを見つめる。僅かな間が合って、門脇が言った。

「やめれる、思うとった。けど今思うと、結局無理やったやろうな。すまん俊、ついさっき、あの時やめてたら~なんて言うたばかりじゃけど、そうなってたらそうなってたで、おれは結局荒れとった気がする」
「うん」
「そんでやっぱり、俊がやめろ言うたからやって、おまえに八つ当たりして………」

 言いながら、門脇の全身から力が抜けていくのがわかった。唖然としたような表情をしていた。
 そうや、秀吾。
 だからこそおまえはあれだけ苦しんだ。
 怪我をして、自分の思うプレーができんようになって。
 おまえにとって野球はそれだけ大きい存在なんや。
 なあ、知っとるか? 秀吾。
 おまえはおまえが思うとる以上に貪欲なんやぞ。
 結局おまえは自分のことすらわかってなかったんやな。そしてそれは、おれもまた同じで――――

「秀吾」

 瑞垣の声に秀吾が顔を上げる。

「おまえは野球やめるな。絶対に、絶対にや」

***


「そういえば、永倉とは話できたんか?」

 トランクとカバンを手に取ったところで、門脇が思い出したように訊ねた。
 瑞垣は内心ぎくりとしたが、表面はいつものように平静を装う。余裕ぶって、少しだけ口の端を持ち上げたりなんかする。

「ああ、きっぱり別れた」
「……そうか」
「聞き分けいいやつやからな。ちゃんと話したらわかってくれたで」

 本当はあれ以来豪とは会っていない。お互い連絡を取っていなかった。
 退院したことも、会社を辞めたことも、瑞垣からは言っていない。もしかしたらどこかで聞いているかもしれないが、豪から連絡はない。そうすると瑞垣も、何だかこのまま何も告げず、姿をくらましてしまった方がいいのではないかという気になってしまった。
 豪には豪の人生がある。
 そんな彼の人生を、自分に付き合わせて、狂わせてしまったことは申し訳なく思うし、本来ならばきちんと話し合って謝罪すべきなのだろうが、会えば気持ちが揺らぎそうな気もする。

「俊」

 うそぶく幼馴染に、門脇が肩を竦めた。

「嘘はいかんな」

 ぽかんと口を開けて固まる瑞垣に、門脇は言葉を重ねる。

「永倉はそんな簡単なやつやないやろ。あいつ結構頑固と違うか?」
「なんで……」
「俊との付き合い、何年になると思うとるんや。おまえがどれだけ厄介なやつか、おれは身を以て知っとる。たった数ヶ月とはいえ、そんなおまえと付き合うとったんじゃ。それだけでも、あいつがどれだけすごいかわかる」

 瑞垣は見る間に顔を赤くして、それからずかずかと門脇の前までやってくると、思い切り腹に拳を叩きこんだ。
 十年前、同じように一撃くれてやった時と違って、固い感触がそこにはあった。
 門脇は息の塊を吐いて、その場にしゃがみこんだ後、苦しげに、それでも笑って見せた。

「どうや俊、あの頃より強なったやろ?」
「まだまだや。もっとトレーニングして、鍛えて、それでまた……」
「また?」
「おまえが活躍しとるとこ見せてくれ。おまえがホームラン打った時の、球が空に描くあの曲線。おれはそれが昔からすげぇ好きなんや」
「ああ」

 力強く頷く門脇に瑞垣は背を向けると、安堵したように笑った。
 門脇は、来年の春から、とある企業に就職することが決まっている。そこで社会人野球のチームに入団する予定だ。
 トランクとカバンを手に取る瑞垣に、門脇が蹲ったまま声を投げた。

「俊、一つだけ教えてくれ」
「なんや」
「俊は後悔してへんのか? 野球やめたこと」
「後悔……したな。すっげえした」

 一拍置いて、瑞垣は言った。どこか遠い目をしていた。

「もしもなんて考えたことは何度もあったし、今でもあの頃のことを夢に見ることもある。それでも時間が経つにつれて少しずつ、そんな気持ちは薄らいでいっとる。おれにとって、野球はそんなもんなんやろうな」

 言いながらも瑞垣の表情は傷ついている人間のそれだった。
 どれだけ時が後悔の念を薄れさせても、野球が好きだという気持ちは変わらない。だからこそ思い出す度、胸が痛むのだ。
 門脇は床にぺたりと座り込むと、そんな瑞垣の顔を見上げて言う。

「そっか。俊はこれからもそうやって、自分に折り合いをつけていくつもりなんか?」
「何が言いたいんや」
「俊は昔から何でもできてすごいのに、なんで全部諦めようとするんかわからんいう話」

 瑞垣はムッと顔をしかめると、今度は門脇の膝を軽く蹴飛ばしてやった。

「って、折角調子良くなってきとるのにまた怪我したらどないしてくれるつもりや」
「ちょっと小突いたくらいで怪我するわけねえやろ。秀吾のくせに生意気なんじゃ」

 ぐりぐりと足の指先を押し付けてやれば、門脇は声を上げて笑いだす。

「はは、なんや懐かしい。昔の俊みたいや」
「前にも言うたけどな。思い出話はハゲてからや」
「ああ、俊。ありがとうな」

 門脇の言葉に、瑞垣は小さく微笑む。
 そうして今度こそ荷物を持って歩き出す。

「じゃあな」
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