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12.12
Mon

「瑞垣さん」

 階段を降りてきて、一階のロビーを横切る。
 後ろから追ってくる豪の声。
 瑞垣は足を止めない。

「瑞垣さん」

 走ってきた豪がすぐに追い付いて、肩を掴まれる。
 振り払いたくなるのをなんとか堪える。
 豪が瑞垣の前に回る。
 不安そうな表情。

「あの、何かおれ、瑞垣さんの気に障るようなことしましたか?」
「別になにも。なんでそんなこと……」
「いえ、ただその、瑞垣さんがなんか怒っとるように見えたから」
「おれが?」

 声が震える。
 おかしい。
 うまく笑えない。
 こんなことでは誤魔化せるはずもない。

 普通に

―――ああ、ちょっと取引先の相手にムカつく奴がおってな。苛ついとったんや

 とか。

 ふざけた感じに

―――今ちょうどツキイチのアレでぇー

 とか。

 適当に何でも言っておけばいいのに、感情が昂って声にならない。
 苛立ちだけではない。
 戸惑いや羞恥心、そんなものが色々混ざっていて、冷静になれない。感情を抑制しきれない。

「瑞垣さ……」

 瑞垣の目から大粒の涙が零れた。
 豪が驚いて息を飲む。

「……ッ!」

 嗚咽が漏れそうになるのだけは、咄嗟に口を押さえて防ぐ。
 なんで、こんな人前で。
 いい年した大人が、こんな情けない顔、こんな醜態を晒すなんて。してたまるかって思うのに、涙は止まらない。
 ほんの僅かな間があって、豪が言う。

「吐きそうです? 大丈夫、こっち。歩けますか?」

 豪が傍らに立って、前のめりになる瑞垣を支えるようにしてくれる。傍目には体調不良の社員を介抱しているようにしか見えない。
 人気のない非常階段。
 そこまで来ると、瑞垣は豪を突き放すようにして胸を押した。

「なんで……」
「泣き顔見られるの嫌でしょう」

 豪がそっと手を伸ばしてくる。
 けれど瑞垣は逃れるように身を引いて、豪の指が空を掴む。
 瑞垣は自嘲にも似た笑みを浮かべて言う。

「おれ、おまえに甘えすぎやな」
「瑞垣さん……」
「ほんま、ええ年した男がなにしとるんやろ」

 くるりと背を向ける。
 頭はすっかり冷えていた。

「すまんかったな、永倉。少し、一人にしてくれるか」

 返答よりも先に豪の腕が伸びてきて、背後から抱き竦められる。
 瑞垣が身をよじって逃れようとするのを、豪は力で押さえつけてくる。

「やめろ永倉」
「嫌です」
「永倉」
「こんなところで、あなたが一人で……泣いているのを知っていて置いていくなんて、そんなのは嫌です」

 豪の声は頑なだった。
 痛いほど腕に力が込められて、瑞垣は動きを止める。

「すみません、これはおれのわがままです」

 豪の身体は大きくて、しっかりしていて、温かくて、思わず寄りかかりたくなってしまう。
 立て直したつもりの気持ちがぐらつく。これ以上はダメだってわかっているのに、抑えきれない。
 欲が溢れ出してくる。
 この優しい青年を、欲しいと思ってしまった。
 罪悪感はずっとある。
 だって自分は自分を豪にあげられないのに。
 だけど自分は自分で思っていた以上に弱くて、汚くて、そして追い詰められていた。
 めんどくさいって、そこで突き放してくれればよかったのに。そうしたらこれ以上、深入りしなくて済んだのに。
 何も知らないこの青年はどこまでも優しくて、ただでさえ弱い瑞垣の心をもっとダメにしてしまう。
 なんだかまた泣きたくなってきて、瑞垣は堪えるように下唇を噛んだ。
 頭の後ろで豪の声がする。

「帰りませんか、瑞垣さん。今日はマヨコロを作る予定なんです。あなたの好きな味に近づけるように頑張って作ってるのに、あなたに食べてもらえないのはやっぱり虚しいと思うから」

 それに、これは受け売りなんですけどと、豪は付け足してから言う。

「何か悩んだり落ち込んだりするときは、まず腹を満たすべきだって」

 きゅうと、タイミングよく腹が仔犬みたいな声をあげて、何か言おうと口を開きかけた瑞垣はそのまま固まった。
 なんでこんなみっともない姿ばかり。
 豪が小さく吹き出して言った。

「帰りましょう、瑞垣さん」

***

――――俊ちゃんそんなにマヨコロ好きなん? じゃあおれのもあげる!

 幼い門脇が満面の笑みで、好物を差し出してくる。
 ああ、これは夢だとすぐに気づいた。
 遠い過去の記憶。
 まだまだ何も知らなくて、まっすぐに物事を見られて、好きなものを好きと素直に言えた頃の。
 あの時、本当に幸せだった。
 綺麗な気持ちでいられて、本心から笑って、怒って、泣いて。
 だけど今となっては――――

「瑞垣さん」

 静かな呼び声に瑞垣は目を覚ます。
 テーブルから顔をあげる。
 うたた寝していたようだ。
 豪がマヨコロを大量に乗せた皿を持ってくるところだった。

「眠いんですか?」

 寝ぼけ眼の瑞垣を見て、豪が言う。
 瑞垣は首を横に振る。

「ああ、うん……大丈夫」

 ぼんやり頷くと、豪が眉尻を下げる。 

「なんちゅう顔しとるんや」

 力のない調子で瑞垣が言う。
 声が少し掠れていた。
 安心させるために短い髪に触れようとしたところ、豪がその手を捕え、はっとしたように眉を跳ねあげる。

「瑞垣さん、熱あるんとちがいますか?」
「そうか?」

 確かに頭は痛いし、ぐらつくような感覚がある。
 どうせいつものやつだ。
 何でもないように瑞垣は笑って見せるが、豪が体温計を持ってくる。
 半ば強引に熱を測られ、顔をしかめられる。

「やっぱり……」
「ちょっと疲れとるだけや、気にすんな」
「寒気はないですか?」
「ああ……」
「食欲は……いえ」

 豪は言葉を切ると、タンスから部屋着を取りだし、瑞垣に手渡した。

「着替えて、横になっててください。ベッド使ってもらっていいんで。おれは少し下のコンビニまで行ってきます。すぐに戻りますから」

 財布を持って、豪が部屋を出て行く。
 瑞垣はちらりとテーブルの上に視線を流す。
 揚げたてのマヨネーズコロッケ。
 大好物のはずなのに、今は喉を通る気がしない。
 小鉢、味噌汁、それからまだ空の茶碗。
 申し訳なく思う。
 多分豪自身は気にするなと言うだろうし、その言葉は本心からのものだろう。
 のろのろとシャツのボタンを外していき、豪が出してくれたスウェットに着替える。
 ベッドに入って、目を閉じる。
 また甘えてしまった。
 なんて自分勝手なんだろう。
 もうこれ以上はやめておこう。引き返せなくなる。優しさにもたれかかって、みっともない自分を晒すのは、もうここで終わりにしようと。
 そう決意した矢先から、なんてざまだ。
 自身に対して嫌悪の感情は沸くが、それ以上思考が働かなかった。
 体がだるくて辛い。
 頭がガンガンなって、軽く吐き気がする。
 疲れやストレスからか、たまに引き起こす症状。
 ここのところずっと一人だった。
 酷い時は本当に死ぬんじゃないかって思うくらいに苦しくて、恐怖と心細さで押しつぶされそうになりながら耐えていた。這うようにして台所に水を取りに行って、薬を探した。
 何でも一人でできる大人。
 そうでないといけなかった。
 だけど今は―――――
 玄関で鍵の開く音を聞きながら、瑞垣はすぅっと意識を手放すように眠りに落ちた。
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